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TEXT

木村松本建築設計事務所『K』について

Ⅰ.起 

・精度としての意匠性

思ったより意匠的だと表層的なことに話がよっていく。たとえば「白い」ことは意匠性においてほとんど意味を表出しないという扱いなので構成や空間の話に行きやすい。開口部だと、たとえば構成の言語で正方形のFIX窓は「穴」であり、天井いっぱいの掃き出し窓は「透明な壁」であり、またアルミサッシの引違い窓はいわゆる「窓」となることが多い。このように開口部を構成の言語として扱うとき、そこに求められる意匠の「意匠性」とは構成や空間を位置付けるための「精度」とほとんど同義となる。建築を構成や空間に特化して扱うことで今までなかった新しい建築は生まれるだろう。しかし、一方でそれは建築をたんなる構成や空間のバリエーションに押しとどめてしまい、世界の多様さに対して建築をつまらなくしているのではないかと思う。構成としての開口部というというのは、大雑把に言うと“分け方”と“つなげ方”の程度の選択である。 “分け方”と“つなげ方”を1本の線の両端に据え、その上でゲージをどの位置にするか、ということに尽きる。ゲージの位置をクリアにするため、またその働きをビビッドにするために意匠は使われる。意匠は、構成や空間に精度として奉仕する。

木村松本の『K』がまとう意匠性は、そういった構成や空間に対する精度としての意匠性とは異なる。木村松本の建築は世界の複雑さに対してそれを整理するでも目をそらす訳でもなく、正面から受け止めるような強度がある。ふんわりとしているが、静かな強度があるように思う。 意匠が構成や空間と同列にある、もしくはそれらの上位に位置するのかもしれない。しかしけっして閉じた私世界を展開を目的としてるのではない。ではいったいどういうことか。

 

Ⅱ 承

・他人の庭

まずは「他人の庭」の話をしよう。 「他人の庭」とは2011年プリズミックギャラリーで開催された木村松本建築設計事務所の展示のタイトルであり、また住宅『K』で語られていた彼らの建築の考え方を指し示す。彼らの建築を考えるうえで外せない概念なのでここで説明しておきたい。

私たちの周りにある土地というのはほとんどが所有の関係のもとにある。公共であろうと個人であろうと、「ここは〇〇の土地」というように名前がついていて、所有された土地どうしは明確な境界で仕切られている。それを意識して街を歩くと、この境界というのが塀や溝や段差によってかなり具現化させていることがわかる。よって境界の“あちら側”を簡単に意識することができる。たとえば、街を歩いているとこういった境界の向こうに不意にいい場所を見つけることがある。自分ではない誰かの所有地を気に入って、前を通るときはいつも眺めてしまうことがある。この境界の向こうにある“お気に入りの場所”を、彼らは親しみを込めて「他人の庭」と呼ぶ。 境界は具体的であり、なおかつ頑張れば乗り越えていけそうなくらいのほうがよい。「他人の庭」とは「他人」のものであることが前提でありそれが覆ることはない。しかし、そんな具体的な境界は、ふとした瞬間、所有という概念をひとまずキャンセルしてあちら側を意識させる開放感を有しているのだ。

街に対するこのような発見は、所有で隙間なく満たされた都市空間に対してそよ風のように爽やかに私たちに届く。資本主義のルールを具現化したような境界であっても、具体物というのは、コンテクストに関係なく必ずある状況を生み出す。「他人の庭」はコンテクストを切り離した具体物が必然的にある状況を生み出してしまうことを肯定的にとらえ、そこに既存の都市に偏在する開放感を発見したのだ。

社会を疑っているわけではない。「他人の庭」に対して視線を投げかけ、夢想し、思いを遣(や)る。「自分のいる場所ー具体的な境界ー向こう側の場所」の相対的な関係があって成立するこの状況を、彼らは住宅『K』のはじまる素(もと)としている。否定や更新をひとまず横に置いておいて、既存の状況を特定の見方をすることで、ある幸福な状態を導こうとしている。 木村松本はきわめて具体的な状況を想定していると言える。

 

・状況からの建築

具体的な状況からスタートした建築はほかにもある。たとえば手塚貴晴/由比の『屋根の家』がそうではなかったか。この住宅は、クライアントから「屋根の上でご飯をたべるのが好きです」という話と子供2人が瓦屋根のうえにいる写真などによって、屋根の上で生活をするというかなり特殊な状況の提示からスタートする。

そこから屋根の上・屋根の基本的なエレメントの使い方を考え直す、つまり建築の根本的なところをかえていく、そういうことを考えていきたいと思っていました。(2007東西アスファルト事業協同組合講演録)

手塚氏が“建築の根本的なところ”と呼ぶ「使い方」、つまり建築エレメントの「機能」というのは、たとえば屋根でいうと、「雨を防ぐ」とか「内部空間をつくる」といったどんな屋根にでも共通することを示し、それを問い直すことで建築を全体として更新していくような姿勢が見てとれる。具体的には、屋根に家族が団らんできるような機能を持たせるため屋根の形状に着目し、「屋根は斜め」→「ポンピドゥセンター前の広場など人の集まるところの地面は斜め」→よって「人の集まる屋根は斜め」といった、いささか単純過ぎる3段論法で屋根の新しい機能を導きだすことに成功している。ひとつの状況からそこに介在する建築エレメントの一般的な形状に着目し、新たな機能を見つけ出すことで一般性を、もっと言えば普遍性を獲得して建築の更新を図る。それが彼らのいう“根本的なところ”だ。

 

・視覚的情報 / 身体的情報

改めて木村松本の『K』を見てみよう。 彼らが提出した状況は「自分のいる場所ー具体的な境界ー向こう側の場所」の相対的な関係を前提として導きだされる「他人の庭」であった。注目したいのは、彼らがここで想起する状況が、具体的なものの見え方、つまり状況をつくる意匠的な側面に強く依拠していることだ。それが何でできているか、どのくらいの高さなのか、どのくらいの厚さなのかは状況に決定的に関与している。建築エレメントの機能に着目し、それを更新しようとする手塚氏の考え方と大きな違いがここにある。もちろん手塚氏の建築も出来上がってくるもものの意匠的な側面に意図的であることは見て取れる。しかし手塚氏の建築で用いられる意匠の意匠性とは、前述の「 構成や空間に精度として奉仕する」意匠性といえるのではないだろうか。あくまで空間や構成が主題としてあり、意匠はそれを明確にする、もしくは邪魔しないように寄り添う位置づけである。木村松本の意匠性は、そのように何かを強化したり何かに奉仕したりする二次的な要素としてあるのではなく、その意匠から直接的に獲得される視覚的情報や身体的情報が主題と密接に結びついている。

 

・へい

『K』には[1]「へい」がある。木村松本は『K』をこの「へい」を中心に語っている。「へい」は「他人の庭」で提示された状況を、ある意味理想的に実現できる建築エレメントと位置付けられている。塀というか高基礎のようであり、モルタルでできていて、厚さが270mm、高さは腰壁程度で天井の高さに応じて変化する。「へい」は彼らの想起する「他人の庭」と同じような印象を持ち得るためのキーとしての役割を担っている。モルタルであること、分厚いこと、腰壁の高さであることは、視覚的な要素として重要なのである。

 

Ⅲ.転

 

モルタルで“できていない”

“視覚的な要素として”とあえて強調したのは、「へい」の表現を掘りさげることで建築表現におけるひとつの重要な規範が浮かび上がってくるからだ。私は『K』に対する「意匠的過ぎる」とか「フェイク」といった否定的ともとれる評価はほとんどがここを根拠にしていると思うのだ。

象徴的にいうなら、このモルタルでできた「へい」はモルタルで“できていない”。通常、土間や外壁などのモルタル面は仕上げられてモルタルの形相となる。内部がレンガであろうと木であろうと仕上げられたら、印象としてモルタルでできているように見える以外にはない。「へい」もまったく同様であるが、しかし「へい」は相対的な場所の関係を生み出すことを運命づけられているため、量感が別途として要請される。塊として見えるために「へい」の内外は同じ仕上げになっていたり、上に乗る柱と壁の厚みが極限にまで絞られている。この操作を建築全体の合理性や必然性の観点から見たとき、一貫しているようには見えないため「視覚的要素」の操作が独立している印象を与える。ここで、私たちが建築を理解するときに無意識に沿うモダニズムの規範が浮かび上がってくる。

建築は、部材の構成において合理性や必然性が、規範として要求されるのだ。これはもちろん経済的な合理性を担保していることでもあるので一般性がある言えるのであるが、他方、文化としてモダニズム建築が目指した理想に起因する理解の仕方でもある。それが規範として明確に表現されているのがアドルフ・ロースの「装飾と罪悪」(再版では「装飾と犯罪」)である。ロースはオットー・ワーグナーの「芸術は必要のみに従う」という主張を徹底させ「装飾が罪悪である」と宣言した(※Wikipediaより)。彼の言説は、モダニズムに回収されたときには装飾そのものの否定として機能したのだが、ロースが本を書いた時点では少し違っていて、装飾における“偽り”を否定したのである。ロースはテラコッタ職人によってあたかも石造のように作られる装飾は偽りの装飾であり、近代の人間の精神によって見分けることができる前近代的なものだとして断罪した。ロースは石で表現されるべき装飾は、石でないと表現することができないと主張した。構成される材料(マテリアル)の真偽は装飾の根幹に関わることなので、建築家はそこに対して規範的に取り組むべきとしたのだ。この宣言はここから「〇〇であることと〇〇に見えることは乖離すべきでない」という、モダニズムによって建築の全体に及ぶ言葉へと昇華され「機能と形態の一致」、すなわち機能主義へとつながってく。「〇〇であることと〇〇に見えることは乖離すべきでない」、これがモダニズムが残したひとつの規範である。例えば「構造と表現の一致」などはこの規範に対する理想的なモデルとして現在に生きていると言える。 〇〇であることと〇〇に見えることは合理性や必然性などの直線的な関係でつあることが理想とされる。表現されたものは建築材料の構成において不可逆で直線的な関係が、規範として求められるのだ。

『K』の「へい」は、「他人の庭」の状況から要請される視覚的要素が圧倒的に重要で、それが細い鉄骨造との関係において必然性が見い出せない。印象としてモルタルで“できている”が、モダニズムの規範にそわないという意味においてモルタルで“できていない”のだ。『K』が表現としてフェイクと捉えられる所以である。

 

・柱と壁

もう少し詳しく見ていこう。『K』の柱は75mm角の無垢(中が詰まっている)の鉄骨でできている。一般的な鉄骨の柱というのは、断面をパイプ状かもしくはHの形にすることで大きさに対して断面積をなるべく小さくし、使用する鉄骨の量を少なくしている。75mm角の無垢柱というのは構造的には150mm角のH型鋼と同じくらいの強度となるという。細い柱は意図されているのだ。前章で書いたように「へい」に量感を持たせるために柱は相対的に小さくなくてはいけない。「へい」は、柱がまずあってそれにペタっとボードを貼付けでできた壁ではなく、「へい」がまずあって柱がそれに次ぐ部材に見えるように、基礎の根巻きのように柱に対してかなり分厚くなくてはいけない。そうでないと「他人の庭」で提示したような、しっかりとした境界でありながら“あちら側”に思いを遣れる存在にならないからである。

「へい」の上の壁も同様の理由から薄くなっている。外観では、モルタルでできた「へい」とその上に乗っている白い壁とが一組となって3層になっていて、「へい」のつくる領域が3つ積み重なっていることがわかる。内観は外観と違い、壁が柱よりも少し後退していて、柱と壁が視覚的に別のものとして扱われている。木造の真壁(しんかべ)構造のようにも見えるし、まだ仕上げのボードが張ってない施工途中のようにも見える。そして、柱も壁も素材感が消されないまま白く塗られただけでかなり具体性が残っている(壁は木毛セメント板であり、ペンキはペンキとしての質感が出るくらい厚く塗られている)ため、構成の表現ではなく、木造や施工途中といった既視感を伴う内観になっている。抽象化の仕方が特徴的で、既視感のあるイメージに寄り添うようにどの具体性を残すかが慎重に選ばれている。

ここまでの流れをまとめておこう。 建築を構成や空間に特化して扱うとき、 抽象化とはノイズとなる要素を排除していくような線形な構造となる。 よりミニマルな表現を求めるなら物質感や既存のイメージを伴う既製品は積極的に排除される対象となる。この場合、意匠は空間や構成を位置付けるための精度として働く。木村松本の『K』はこのような意匠性はない。『K』には建築に先行する「他人の庭」という概念があり、それが示す状況を理想的に実現するための「へい」が、具体的な要素として重要な位置を占める。ただ「他人の庭」は、何処とはいわない街のなかでの、誰にでもありそうな体験をもとにしたふわふわした概念であるため、薄い既視感を伴うようなイメージに帰着することが求められる。よって空間や構成というより視覚的要素が決定的に重要で、といっても現実のなにかを表現するわけではないので、具体性を慎重に選ぶような消極的な抽象化が必要となる。そしてその結果として表れるのは、必然性や合理性を飛び越え、構造をも支配するような非表層的な意匠性なのだ。

では、その非表層的な意匠性によって、『K』はなにを残したのであろうか。結論に向かう前に、同様のアプローチを試みている建築を補助線として1つ取り上げたい。中山英之の『Yビル』である。

『Yビル』は2011年に中山英之建築設計事務所によって設計された鉄骨5階建ての雑居ビルである。敷地が三角形の狭小地であるため、内部の面積を最大化するために平面から柱などをできるだけ排除している。平面からなくなった柱は、89mm角の無垢材になってファサードと一体化し、サッシ枠として扱われているため意匠的には柱は存在しない。結果的にペラペラのファサードのみによって支えられている建物となっている。ファサードを構成するエレメントは、腰壁と連続水平窓といった一般的なビルと変わらないものなのだが、そこに重量感が欠如しているため、一種異様な、絵本のなかのような建物になっている。

Yビルで注目したいのは、「物語的」と言われるような絵本のような世界観をまといつつも、建物を構成するエレメントが一般的な建物と変わらないということだ。ただ、ひとつひとつのエレメントのスケールを操作したり具体性を慎重に選び取るような手続きを経て印象を異化させている。ここに『K』と共通する操作、共通する意匠性へのアプローチが見て取れる。印象の操作のために建物の構造まで総動員するような非表層的な意匠性である。『Yビル』のファサードは周りにある風景に溶け込みつつも一瞬だけ風景を歪めるような効果をもつ。建物そのものの意匠性によって何かを提示しているのではなく、まわりの風景に対して濃厚なフィルターのような、厚いレンズのようなものをそこに差し出しているように思う。これを建築の半透明性と表現してみたい。

 

・透明性 / 半透明性

『K』は、何処とはいわない街のなかでの、誰にでもありそうな体験をもとにした「他人の庭」という概念にならった建築にするため、具体性を慎重に選ぶような消極的な抽象化がもたらされている。そしてその意匠性とは街でよく見かける一般的な建築エレメントによって構成されつつもどこか現実感が脱色されたような印象を残し、しかしその裏では構造まで総動員するような非表層的なものである。『Yビル』ではそれが周りの風景に対して厚いレンズのように作用しているように感じ、そこが『K』と共通する点として建築の半透明性と名付けた。

上記の半透明性を説明するために建築の透明性をおさらいしておこう。以下エイドリアン・フォーティ『言葉と建築』の解釈を用いる。まずはコーリン・ロウが著書『マニエリスムと近代建築』のなかで提示した2つの透明性ー実の透明性と虚の透明性ーである。 実の透明性とは文字どおり透明なことで、ガラスなどによって実質的に視線が通過することを指す。虚の透明性とは、遮断する部分があることによって、対比的に向こう側の景色の透過を感じる/認識することができるといったようなものであり、言ってみれば奥行きやレイヤの操作によってつくりだす感覚的な透明性といったようなものだと解釈できる。前者をグロピウスのバウハウス校舎、後者をコルビュジェのガルシェの住宅を例に出して説明している。

もうひとつの透明性は、意味における透明性である。これはアメリカの批評家スーザン・ソンタグによる『反解釈』の中で適切な説明がなされている。

透明性…は今日、芸術…においてもっとも高貴、もっとも解放に資する価値である。透明であることが意味することは、ある輝きを体験することであり、しかもその輝きは、ものそれ自体、もののありのままの姿の中にあるということだ(p.13)

形式と内容、対象と意味の間に、何ら区別はあるべきではないというこの考えは、すべての芸術ジャンルにおいてモダニズムの美学のまさに核心に位置しており、それは建築に限ったことではない。モダニズム芸術の理想は、何ら解釈を要しないことであった。なぜなら、芸術がもつ意味はすべて、作品の感覚体験に内在していると考えられていたからである(このあたりは先に書いた『 モルタルで「できていない」』の章のモダニズム建築の規範にも通ずる)。話を建築に落とし込むために「形式と内容」を「形と意味」言い換えると、建築の透明性の理想とは「形と意味(=機能)の一致」なのだ。

半透明性を持つ建築とは、建築における視覚的要素や体験的要素がフィルターとしての意味を持つのであって、建築そのものに意味を見い出せる訳ではない。では意味とはそもそも何か。ニクラス・ルーマンは「意味とは複雑性を減縮するメカニズム」だと説明する。「意味」とは、複雑性を受け入れる一種のゲートのようなものである。ひとはそのゲートで一度身を落ち着けて、次にどの方向に向かうかを考える。モダニズムは目の前の現実を1つの物語(=意味)で捉えることができるという前提に立っていた。だから1つの理想に社会が結実することに向かって邁進することができたのだ。しかし、1960年代に近代主義の理想は崩れ、現実が1つの像を結ぶことを誰もが信じなくなった。その反動としてのポストモダニズムの表現は、複雑性が露呈した目の前の現実から目を背け、各場所、各作家の表現のなかに閉じこもり「ここではないどこか」を目指したと言える。『K』のような半透明の建築はこの2つの大きな歴史を踏まえて登場している。目の前の現実を1つの物語で捉えるを諦め、かといって別の非現実に逃げ込むことはしない。現実と同じボキャブラリーを使って、しかし色や素材やスケールに操作(=消極的な抽象化)を加えることで、現実から半歩ずれたいわば半現実を人と現実の間に提出し、現実に対するフィルターとして機能させるのだ。人はそこでの体験から沸き上がってくる感情をもって、外の現実をあらためて見つめ直すことができる。

『K』の意匠性が示したものは、これまでの建築と比べてきわめて特徴的である。それが建築の半透明性だ。半透明性は、街にあふれる建築ボキャブラリーを用い、具体性を慎重に選ぶような消極的な抽象化を施し、モダニズムの規範たる必然性や合理性を飛び越えて、構造にも影響を及ぼすような非表層的な意匠性によって支えられている。これにより建築は現実に対するフィルターとして機能し、複雑で捉えどころのない外の世界に対してある見方を指し示すのだ。ではどうやって、その意匠性は半透明性を獲得しているだろうか。

 

Ⅳ.結

 

・神話素としての「へい」

最後は少し離れたところから木村松本に迫ってみようと思う。『K』をひも解くもうひとつの補助線として、村上春樹の評論を用いる。福島亮大の『神話が考える』のなかにある評論である。

村上春樹の小説の世界は、私たちの生活に深く沈殿した寓話性の強い神話素と、グローバルに流布するマスプロダクツ(商品)の組み合わせによってできている。…『ねじまき鳥クロニクル』では、井戸やあざのような神話素を巧みに活用していたし、…『1Q84』でも、月や豆といった神話素が何度も登場し、場面をスイッチする役割を果たしている。…物語が進むにつれて、その見慣れた神話素を梃子にして、まったく別の記憶が流し込まれることになる。(p.199)

著者は「神話」とは、情報処理のための方程式(アルゴリズム)のことだと言う。たとえば、日食を天体の運動が起こす現象だということが分からなかった時代、中国では「君主の象徴である太陽が欠けるということは、君主によくないことが起こる兆候だ」という物語のなかに、わけの分からない現象を押し込めて理解しようとした。把握できないほどの情報にストーリーを与えて情報量を縮減するのが「神話」の機能である。そしてその神話の起点となっている太陽や月を「神話素」と名付けている。大雑把に言ってしまえば、「神話素」とは何かを思い出してしまいそうな記号的な要素のことだ。「桜」と聞くと「新学期」や「別れの季節」といったものを連想する。村上はそういった神話素を軸にして物語を組み立てていくのである。そして「神話素を梃子にして、まったく別の記憶がながしこまれることになる」のが特徴的だろう。

たとえば、笠原メイによって導かれた井戸が、いつのまにかノモンハンの井戸の記憶と交錯し、…あるいは、主人公の顔に現れたあざが、いつのまにか別の人間の顔に出たあざと合致し、犯してもいないはずの殺人の記憶を共有することになってしまう。言うなれば、主人公の手持ちのカード(神話素)は何も変わってないのに、そのカードが異質な文脈でシャッフルされるために、居ながらにして、カードの意味が変わってしまうのだ。 (p.200)

複数の物語が交わるとき、神話素はその分岐点として機能する。神話素は誰でも物語を詰め込んでいそうな連想の軸のようなものなので、時間や場所や人の違いを飛び超えて異なる物語をつなぐことが可能になるのだ。ここで先ほどの「へい」を思い出してほしい。「へい」は『K』に先行する「他人の庭」が示す状況を理想的に実現するための要素であった。「他人の庭」とは具体的な境界が所有の概念をひとまずキャンセルして見せてくれた開放感な「あちら側」である。 「へい」は特定の具体的な境界であり、理想的な場所の相対関係をつくりだす。「へい」は具体物ではあるが、それが積極的に提供しているのは状態なのである。物語を提示しているのではなく、状態を具体的に提示するだけだ。その奥にある各人の物語を拘束することはない。「へい」はこのような、各人に自由に開放された「他人の庭」の物語を束ねる神話素として『K』のなかで機能している。

そして、「へい」が神話素として各人の物語にリンクしやすくなっているのは、「へい」の出で立ち、すなわち形やスケール、仕上げといった身体的視覚的側面が非常に重要である。「へい」は270mmの厚みで内外がぐるっとモルタルの仕上げで覆われている。それはまるで、廃墟に放置された高基礎のようでもある。実際に木村松本は初期「他人の庭」を説明するときに草が生い茂った快楽的な廃墟のような絵を使っていた。そこにイメージするのは、所有を明示するという機能が抜け落ちた状態、あるいは一時的に機能を意識しないような状態である。具体物として現れたとき「もの」そのものが持つ状態が重要になるには、このように本来果たすべき役割が解除されたような雰囲気をまとうことが有効なのである。ここでも、村上春樹の方法論との類似性が見てとれる。

村上が、世界=市場から脱落しかかっているものを好んで利用していることである。…現在進行形の存在よりも、現世から脱落しかかっているもののほうが操作しやすく、また感情も投影しやすい。村上は、情報を次々と押し流していく生成の時間性の、いわば“へり”に位置している存在を起点にして、神話を構築する。 (p.205)

「へい」は廃墟のような役割を意識しない状態に見えることが重要で、それが村上の「生成の時間性の、いわばへりに位置している存在」と同義と考えてもそれほど強引ではないだろう。2章の最後で「モルタルであること、分厚いこと、腰壁の高さであることは、視覚的な要素として重要なのである。」と書いたが、その理由がこれである。そのほうが「へい」のまわりにある個人の感情を引きつけやすいのだ。「へい」はこのように、人々の記憶にリンクする神話素であるとともに、役割を解除されたような雰囲気まとうことで人々の感情引きつける。そして引きつけた感情はそこに留まることはない。それを介して別のなにか、「へい」で言えば、外部との関係へと開放されるのだ。

意匠性とはふつう、表現しようとすることを相手に届けるために、ものから発散されるベクトルを持つ。しかし上に示した意匠はこれに対して、ものの周辺にいる相手の感情を引きつける吸引のベクトルをもち、そしてフィルターのように感情を通過させて世界を照射する。 どのような捉え方をするかは各人の自由であるが、ぼやぼやした外の世界を捉えるためにピント合わせてくれるような機能をもつ。これが意匠の半透明性だ。

 

・小さきものへの愛着

「へい」の意匠性について主に述べてきたが、『K』のもうひとつ大きな特徴は窓にある。2010年の『超都市からの建築家たち』で出展された作品が『K』の「へい」と窓のみだったことから、『K』の表現がこの2つの要素に凝縮さていることを示唆していると考えられる。窓は一般的に建築の表情を決定する重要な要素であると同時に、外部との関係を決定づける要素でもあるので、窓に対するアプローチが重要になることが言うまでもない。その上で『K』の窓が“構成や空間の言語としての開口部”とは異なる重要性を有していることを述べていきたい。『K』の窓における意匠の半透明性の獲得だ。

『K』の窓は「へい」の上に置くようにある。「へい」の上に枠なしのFIX窓が30cmあり、そのすぐ上に縦長の押し開き窓がある。押開き窓にはゆったりした間隔の縦格子がついていて下のFIX窓とは異なる表情になっている。まるで、窓が少しだけ開いているように見える。『新建築住宅特集』2012年7月号に掲載された木村松本による『K』の窓の説明では、“「閉め切ってない」ような様相が、人やまちを受け入れながら生活する場としてのキャラクターを体現している。”とある。やはり閉め切ってない表現は意図されており、どうやらそこに住宅の使い方を代弁させているようだ。

文字通りに受け取ると、非常に表層的な表現である。「開いている」ような窓があるから「外の人やまちを受け入れる」というのはいささか短絡的ではないだろうか。実際、内側から見るとすっと抜けていくような開放感はあるが、「体現している」というより、建物が開放的なキャラクターを有していることを表すアイコンのようなものとして受け取ったほうが腑に落ちる。「開いている」表現が「開いてない」状態でつくられているため、ここのフェイク感は否めない。しかし、ここで語られている開放性は本質的ではないと思う。いわば、木村松本の半透明な物語の入口を示唆しているだけだ。本質は表にあらわれている表現でなく、このような小さい部分に固執する微視的な彼らの手つきにあると思う。ふたたび村上春樹評の引用を参照する。

…村上春樹の登場人物は、物事を非常に微視的に見ることによって、管理可能=計算可能なものを増やしていく。たとえば、デビュー作の『風の歌を聴け』では、これから紡がれるテクストが小説でなく「リスト」だと言われ、『1973年のピンボール』でもある女性について「確かに彼女は彼女なりの小さな世界で、ある種の完璧さを打ち立てようと努力しているように見受けられた」と記される。(p.206)

微視的な手つきで小さい部分にこだわるのは、管理可能=計算可能なものを増やしていくためだ。 それらが表現しているひとつひとつが重要なのではなく、 小さい部分の集積として全体を統御する意思を放棄していることこそ重要なのである。 そもそも小さい部分へのこだわりとは、全体を統御する物語の精度を高めるために用いられてきた。トップダウンの末端における精度としてである。しかし、本論考で述べてきたように、木村松本の建築は全体を統御するような物語はない。消極的な抽象化の果てに世界の解釈のフィルターとして機能するような半透明な状態だ。それはあくまで部分の状態である。人が居合わせた、あるまとまりをもった環境の状態である。小さい部分へのこだわりは、こういった部分を部分として成り立たせるための精度として機能している。たとえば、他の部分を見ていくと、「へい」の立ち上がり部分にはコンセントを設けないというルールがあったり(コンセントが欲しい場所の床に埋め込まれている)、エアコンがよく見る高さではなく腰壁ほどの「へい」に付いてたり、間仕切りの「へい」が外壁の厚みと同じだったり、1階の天井高が隣の道路の幅と同じになっていたり、それぞれ独立したこだわりがいたるところに見られる。自立した部分を増やすこと、もっと言えば溢れさせることこそ、この小さいものへのこだわりの本質ではないだろうか。

そのことによって何が起こるのか。 微視的な操作によって計算可能が増えるということは、逆に計算不可能なものも同時に増えていく。説明のために再び引用をする。

…一例を出せば、ゲノムのようなきわめて小さな対象を相手にするとき、その複雑な相互作用をすべて管理することは難しくなる。たとえば、個々のゲノムの役割は解読することができても、三万の遺伝子の絡み合いと、そこから来る組織化の変化については現状の人類の理解を超えている。小さきものは一方で、物事の管理可能性を高める。しかし、他方で、小さきものどうしの相互作用は完全には管理不可能だと言うしかない。…村上の描く登場人物は、生活を細かく切り分け、淡々と、機械的な生活を送っている。…しかし、まさにその当の小さきものの堆積から複雑な相互作用が発生し、平穏な生活に無数のエラーが忍び込んでくる。(p.207)

この性質は長編小説『ねじまき鳥クロニクル』に顕著にあらわれる。謎の女からかかってくる不可解な電話によってこの物語ははじまる。そして、それを修正するように、猫、井戸、路地、クリーニングといった日常の風景のなかにあるひとつひとつを微細に記述していくが、結果として主人公の周囲に不気味な出来事を蓄積させていってしまう。

小さいものを微視的な操作で作り上げていくのは誠実な態度である。保守的にさえ見えるだろう。しかし、全体を統御する意思のない部分の積み上げは、ときとして予想していないエラーの介入を導く。木村松本の『K』は、部分部分においてそれぞれのルールのようなもので制御=管理をしようとしている。それは全体に統一された色彩も相まって、ひとつの世界観を創ろうとしているように見える。しかし、その部分どうしを統括する物語には関心がない。あったとしてもとても希薄で表面的な物語しか出てこない。よって、すぐ隣にあってまったく管理できない部分、すなわち外部の介入を用意に許してしまうのだ。小さいものへのこだわりは、統括する物語に寄与するのではなく、逆に外部の世界を介入させることに寄与しているのだ。フィルターのように機能する意匠の半透明性は、神話素としてのエレメントと細部へのこだわりによって双方向的に強化されている。

 

・まとめ

さて、以上で『K』の意匠性についての論考はこれで終りにしようと思う。最後に要約しておこう。

木村松本の住宅『K』を見て私は、“世界の複雑さに対してそれを整理するでも目をそらす訳でもなく、正面から受け止めるような強度がある”と感じ、そこで重要な役割を果たしている意匠性に着目した。『K』の意匠において特徴的な「へい」は、「他人の庭」という先行概念が示す状況を、理想的に実現するための具体的なエレメントである。それは街で見かけるような要素でありながらどこか現実感が脱色された印象を与える一方で、そういった印象のためにモダニズムの規範たる必然性や合理性を飛び越えて、構造をも支配してしまう非表層的な意匠性を有する。そしてこのような意匠性は、風景に溶け込みつつも一瞬だけ風景を歪める濃厚なフィルターのような機能をもっていると感じ、これを建築の半透明性と名付けた。

建築の半透明性は、各人に自由に開放された物語を束ねる神話素としてのエレメントにおいて実現される。そしてエレメントの周辺にいる相手の感情を引きつけ、通過させて世界を照射する。 また、統括する物語を持たずに部分部分において管理をしようとすることは建築の半透明性を外側から強化することになる。微視的な手つきによって部分を積み上げることで、まったく管理できない部分=外部の介入を容易に許すのだ。

このように、『K』に見られる特徴的な意匠性は、現実に対するフィルターのように機能する半透明性である。各人の解釈には関与することなく、複雑で捉えどころのない外の世界にピント合わせてくれるような機能をもつ。モダニズムとポストモダンの2つの大きな歴史を踏まえてあわられた意匠性の操作が、現実に対する新しいアプローチを提出しているのだ。繰り返しになるが最後にもう一度『K』の感想を記してこの論考を締めようと思う。散漫な文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

木村松本の建築は、

世界の複雑さに対してそれを整理するでも目をそらす訳でもなく、

正面から受け止めるような強度がある。

ふんわりとしているが、静かな強度があるように思う。

2012年7月

design SU 白須寛規