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siinari建築設計事務所『鳥見町の住宅』について

・批評のスタンスについて

まず、触れておきたいのが、僕が「どういうスタンスでこの文章を書いているか」だ。建築家は建築をつくるときに理論やストーリーを展開し思考をめぐらせる。これは「建築を説明する言葉」として僕らは触れる。一方で、批評は、「建築そのものやまた周辺で起こる出来事、風景について紡ぎだした言葉」だと理解している。説明が批評をオーバーラップすることはあるが、それはそのそれぞれにおいて必要条件ではない。必要条件とするならば、批評とは建築の説明を前提とすることになり批評の空間は極端に狭くなる。たとえば作者不在のいわゆるバナキュラーな建築(事後的な説明しか持たない建築)が批評の対象となりうることは、もう40 年以上前に明らかになっている。建築は、誕生する前においても後においてもたくさんの言葉を想起させてくれる。それは作り手に限定されることなく、建築を学ぶ者、建築が好きな者、ただ通りすがっただけの者にも、その門戸は開かれている。僕は、建築の説明と批評の言葉においてその同一性を求めない。

鳥見町の住宅について

鳥見町の住宅は、「郊外住宅地」に建っていた。駅からの道すがら10 分ほど住宅地を歩いたが、個性的な装いの住宅がゆったりと建っている場所だった。印象的だったのは、その個性的な住宅の印象がエリアごとに均一に見えてしまうほどエリアの領域が明確だったことだ。郊外住宅地は、面的に開発され建物を一気に建てる。よって、その時代その場所の価格帯など、エリアごとの個性が反映されるのだ。そんなわけで、鳥見町の住宅は同じ時期に一気に建った住宅に囲まれていた。上り坂がゆっくりと左へカーブする付け根のところで右折し、細い道に入る。すぐに袋小路になっている4、5軒だけのための道だ。その奥の右手、視線をぐるりと見渡した終点に建っていた。まわりの住宅をほぼすべて見納めたあとに、「でね、」とばかりに目に飛び込んできた。

少し奥まってスラットした白い切り妻がまず目に入る。庇の出をおさえ、大きな窓が穿たれている。まわりとくらべると飾り気がなくほっそりとした印象だ。視線を下げると右手に片流れの「小屋」が手前に向かって突き出ている。窓もなく波板で覆われた小屋的な装いだ。新築なのでまだキラキラしていたが年月を経て光沢がおさまってくるとますます小屋的になるだろう。

エントランスは、なんとこの「小屋」の正面の妻面というではないか。たしかにスーパーにデカい敷石が「どうぞ!」と迎えてくれている。

入ってみてもまだここがエントランスという感じがしない。勝手口かと見紛うサイズと印象だった。目の前にあった柱はとても細い。これは、押入れのなかに使われる部材のサイズに似ている。見渡すと自分がいる空間がそのサイズ感の部材のみで構成されていることに気付く。華奢な部材によって構成されていることは意図されていると考えてよいようだ。作者はここを「小屋」的につくっている。

天井は貼られておらず、細い部材がダブルで組まれたトラスが、これまた短いピッチで繰り返されていた。「小屋」は奥へと細長い空間であり、トラスがずーっと連続しているのが見える。奥は外に開かれている空間のようで、光が奥から手前にむかってグラデーションをつくって入ってきている。禁欲的で、反復と明暗といった建築の基本的な美を感じた。

少し進むと、先ほど外から見た白い細長いボリュームにつながる。まずそこにアイランドキッチンが鎮座していた。「ん?」と思って小屋のほうを見ると、浴室、洗面、トイレがあり、いま来た背後にはエントランスがある。「やはり僕は勝手口から入ってきたのかな」と思うほど、プライベートな用途の固まりにエントランスがくっついている。この配置はどこかで見たことがあるぞ、と考えてみると、これはワンルームマンションと同じ配置だと気付いた。玄関を入るとトイレ、浴室、キッチンがあり、奥に広いリビングとテラスがある。まさにこれだ。

広い敷地だと、手前から奥に向けてパブリックからプライベートへと配置するし、日本的に説明しても「ハレ」と「ケ」の空間として前後に配置するのが定石だ。しかし、狭いとうまくいかないこともあるし、現代の生活においてそれが正しいとは誰にもわからない。住宅であればなおさらで、住まい手の住み方によってその住宅の正解が導きだされることもある。ワンルームマンションの定石を過去作CONSTANTAPARTMENT でひっくり返しておきながら、なんのてらいもなく使ってしまう柔軟さに驚く。実際、敷地は幅がそれほど広いわけでなく奥に長細い。向こう側は下がっていて眺望が開けている。戸建てといえどマンションプラン的な室配置が導きだされてもおかしくない状況と言える。

キッチンカウンターから奥の階段へと誘われるように足を運んだ。天井がふっとなくなり、窓が大きく光が存分に入っている。とても心地がよいさわやかな空間だ。しかし、っと逆説を使うべきかためらうが、柱が、デカいのだ。(…あまり気にしないほうがいいのかもしれない、空間は、にもかかわらずさわやかで心地いいのだから、しかし、)柱どころか梁もデカい。A3 ロール紙くらいの大きさで、しかも2本並んで壁に貼り付いている。「なぜ…」という思いをとりあえず横におくとしよう。

階段を登ろう。鉄板で作られた階段は軽やかに空間を仕切り、上階へと誘う。また、手すりはしっかりとした木でできている。なるほど移動で体重をあずける階段より、手元にある手すりのほうが安心感につながるのだな。

2 階にあがると、、またも違和感に包まれる。デカい柱が門のように2 階で待ち構えていた。そこにいた棟梁が、「こっから子供部屋なんですよ」と教えてくれたが、「そうなんですねー」と言いながら僕の違和感は片付かず目を泳がせていた。プラン上の領域をわける存在としては明らかに大きすぎる。これはなにかこの建築全体におよぶ事柄だと判断した。

整理してみよう。この建築には、2つの空間と1つの違和感があった。1つ目の空間は、奥に長い小屋のような空間で、華奢な構造材で成り立っていて反復と明暗を抱えた清貧な空間だった。2つ目の空間は、さわやかで縦に大きな空間で、きれいなキッチンや階段があり、アクセントのカーテンが風に揺れていた。そして、違和感としての大きな構造体。それほど大きな空間ではないので、サイズのアンバランスを経験的に感じた。ここに、なにかある。

「経験的に」考えたことがひとつのヒントになるだろう。批評をするとき、必ず自分の中のなんらかの尺度を用いる。自分の持つ尺度を基準とし、それに対象を照らし合わせて言葉を紡ぎだす。僕が違和感を感じたのは、僕のもつ尺度と構造体が前提とする尺度に差があったからではないかと理解した。

大きな構造体の持つ意味をもう一度考えてみよう。大きな構造体は大きな建物や高架などの交通インフラで目にする。それは建物の「大きさ」を支えるため「物理的に」必要とされるのであり、また車や電車の動きからくる振動を抑えるために必然的に大きくなる。ここでは「物理的な」尺度で構造体を見ている。上に書いた文章も、僕は構造体をあくまでその空間を支えるための「物理的な」尺度で見ていた。

一方、寺社仏閣などの古い建物や、もっといくとパルテノン神殿やローマ帝国の一連の建物群にはとても大きな柱が使われていることがある。これは「物理的な」必要性もあるだろうが、「風景として」その大きさが重要なのではないだろうか。そこにずっとあること、人知を超えた存在がその建物に介在していることは「風景として」その大きさが重要性を持つことがあるように思う。ピラミッドは、大仏はなぜあんなに大きいのか、御柱はなぜあんなに太いのか、そこには近代が置き去りにしてきた尺度があるように思うのだ。

この柱は、たぶん1人の力ではどうすることも出来ないくらいに大きい。ぶつかっても蹴っても傷つけても、時には寄りかかってもびくともしないだろう。一般的な尺度で測れないほど大きいからこそ、その大きさが圧倒的な安心感をもつ。そんな存在が住宅のなかにあることは、実は重要なことかもしれない。ピラミッドほど大きくなくても、大きさに対して近代以前の別の尺度を用いることは、現代の住宅において有効だと思った。この大きすぎる柱が、住人にとってどんな存在となるのか今は知ることはできない。だから、オープンハウスではわからなかったし、もしかしたら住んでみてもしばらくわからないかもしれない。しかし、建築家は、この構造体のもつ大きな尺度を信じてこれを選択した。途方もなく未知のものに判断を託したものだ。彼はこれを信じ、この建築を信じている。この事実にあらためて感服する。

2016/09/10

design SU 白須寛規